能のあらすじ・見どころ Summary and Highlights of Noh 蟻通 日本語

あらすじ

 和歌の神に参詣しようと、紀貫之(きのつらゆき)(ワキ)は従者たち(ワキツレ)と紀伊国(和歌山県)の玉津島(たまつしま)へ旅に出ます。途中、和泉国(大阪府)で、日が暮れ大雨が降り出し、乗っている馬も倒れ臥してしまいます。

 途方に暮れる貫之一行の前に、傘をさし松明(たいまつ)燈籠(とうろう)の場合も)を持った宮守の老人(シテ)が現れます。宮守は、蟻通明神の前を馬に乗ったまま通ったのなら命は無いだろうと告げます。そこで貫之は、はじめて暗闇の中に社殿があることに気付き、(おそ)れ多いことをしてしまったと悔やみます。宮守は、相手が歌人の貫之だと知ると、明神に歌を手向(たむ)け詫びるように言います。そこで貫之は「雨雲(あまぐも)の立ち重なれる夜半(よわ)なればありとほしとも思ふべきかは」(雨雲の立ち重なる闇夜の中で、どうして星があると気付くことができるでしょうか)と詠みます。宮守は蟻通(ありとほし)の名が詠みこまれたこの歌を褒め、和歌の徳を説きます。すると、不思議なことに倒れていた馬が元の通りに立ち上がり、鳴き声を上げました。神に許された貫之は安堵(あんど)します。

 貫之に乞われるままに宮守が祝詞(のりと)をあげて神を慰めます。宮守は、貫之の和歌の(こころざし)に感じて蟻通明神が仮の姿で現れたのだと告げ、そのまま姿を消してしまいます。実は、この宮守こそ蟻通明神の化身だったのです。貫之は喜び、夜明けと同時に、再び玉津島参詣へと旅立つのでした。

見どころ

 〈蟻通〉は歌によって神の怒りを(しず)めたという、和歌の徳を称えた説話を題材とした世阿弥作の曲です。

 シテの宮守は蟻通明神の化身ですが、明神は神体を現さず最後にそれと悟らせて去っていきます。宮守なのか、神なのか、明確でない演出は、古い能の形を残したものともいわれています。

 ワキの紀貫之は平安時代の代表的な歌人で、『古今和歌集』の撰者の一人でした。蟻通明神を歌で感心させるのに適した人物だといえるでしょう。この曲では、ワキの所作が多く、ワキ方にとって難しい曲とされています。例えば、空を見上げ鐘の音を聞いたり、倒れた馬の手綱(たづな)を引いて馬を起こしたり、普段はあまり動きのないワキが、具体的な所作で観客に情景を伝えます。

 一方、シテの所作は少ないですが、神の化身らしい威厳が求められます。登場の場面では傘と松明(たいまつ)を持っており、本曲特有の扮装をしています。世阿弥は『申楽談儀(さるがくだんぎ)』で「松明振り、傘さして出づる、肝要ここばかり也。扇などにてしては悪かるべし。」とし、世阿弥がこの曲において小道具を重視していたことがうかがえます。傘と松明によって、雨の降りしきる夜の闇が一層強く印象づけられます。

 雨降る闇夜の社殿を舞台にして演じられる、おごそかで神の化身を思わせるシテの演技と、普段より動きの多いワキの演技をお楽しみください。