能のあらすじ・見どころ Summary and Highlights of Noh 山姥 日本語
あらすじ
山奥に棲むという鬼女、山姥の曲舞を謡う女芸能者は、都で評判を得て「百万山姥」(ツレ)という異名で広く知られていました。ある時、百万山姥は善光寺参詣のため供の者たち(ワキ・ワキツレ)を連れて、信濃国(長野県)へ旅に出ます。善光寺へ至る道には、上道・下道・上路越の三道があり、百万山姥は善光寺の本尊である阿弥陀如来の通られた道であるという上路越を徒歩で行くことにします。ところが、山中で突然、日が暮れて暗くなってしまいます。
辺りには宿も無く途方に暮れる一行のもとへ、一人の女(前シテ)が現れて宿を貸そうと言います。一行を家に案内した女は、百万山姥の山姥の曲舞を所望します。そして、自らが山姥であると明かして、そのために日を暮れさせ家に連れてきたのだと言います。百万山姥が謡おうとすると、女は今宵の月の夜に謡うのなら、自らも真の姿を現して舞おうと告げ、消え失せてしまいます。
このにわかに信じがたい出来事に一行は恐れをなします。所の者(アイ)から山姥にまつわる説を聞くうちに夜も更けていき、月光のもとで百万山姥が約束通りに舞い始めようとすると、山姥(後シテ)が異形の姿を現します。山姥は「邪正一如」という禅の教えを語り、人間と山姥も本来は同一のものなのであると謡い舞います。その後、春・秋・冬の「山廻り」の様を見せ、どこへともなく去っていくのでした。
見どころ
本曲は山奥に棲む山姥が、都から来た女芸能者「百万山姥」の前に現れ、仏教の摂理を説いて舞を舞うというものです。哲学的要素と芸能的要素が絡み合った、世阿弥の作品です。
百万山姥は「曲舞」という芸能を専門にしています。曲舞とは中世に流行した歌謡で、能のクライマックス部分である「クセ」というパートの原形になったものです。曲舞はリズミカルな節が特徴で、この節を世阿弥の父である観阿弥が能に取り入れたことで、能の大きな改革をもたらしました。
本曲の見どころは、その曲舞を山姥が舞う場面です。世阿弥の芸談書『申楽談儀』には「名誉の曲舞どもなり」とあり、この曲舞が称賛されています。曲舞で、山姥は「邪正一如」という仏教の理を語ります。すなわち、「仏法と世法」「煩悩と悟り」「仏と人間」「人間と山姥」は、別々の対立するものではなく同一のもので、真理としてのあらわれ方が異なるにすぎないということです。山姥の「山廻り」の場面では、「輪廻」という人間の繰り返される生の苦しみの様が表されており、人間も山姥も同一の存在であると説いています。
山姥は、姿こそ異形の恐ろしい者ですが、人を助ける存在として描かれます。または、深い山奥の神秘的かつ原初的な世界で、人間の存在を超越した大自然の象徴ともいえるかもしれません。山姥は「輪廻を離れぬ、妄執の雲の、塵積もって」生まれた鬼女です。そんな山姥が、深山の月明りのもとで仏教の思想を語り舞う姿に、ご注目ください。