能のあらすじ・見どころ Summary and Highlights of Noh 藤戸 日本語

あらすじ

源氏の武将、佐々木盛綱(ささきもりつな)(ワキ)は備前(びぜん)児島(こじま)(岡山県倉敷市)の戦いで平氏を撃退した功績により児島の領主に着任し、児島の対岸に位置する藤戸の浦を訪れます。そして土地の者に訴えたいことがあれば申し出るよう触れを出します。

すると年配の女性(前シテ)が現れ、盛綱の顔を見てさめざめと泣きます。その女性は児島の合戦で盛綱が殺した藤戸の浦に住む男の母でした。母親は殺害の事実を隠そうとする盛綱に、真相を明かすよう詰め寄ります。

母親にほだされて盛綱は事件当日のことを語ります。児島を占拠する平氏に奇襲をかけるため、盛綱は藤戸に布陣し、馬に乗ったまま児島へ渡る方法を探していました。そこへ一人の男が現れ、浅瀬のある場所を教えました。

先陣(一番乗り)の手柄を取られることを恐れた盛綱は男を刺殺し、海に遺骸を捨てたのでした。盛綱の話を聞き母親は気持ちが収まりません。自分も息子と同じように殺してほしいと盛綱に(すが)りつき、息子を返してほしいと嘆き悲しみます。

盛綱は男の供養とその妻子の世話を約束し、召使い(アイ)に命じて母親を自宅まで送り届けさせ、管絃講(かげんこう)(読経と音楽の演奏で供養すること)を催します。読経の声に惹かれて男の亡霊(後シテ)が現れます。

男は殺された時の記憶がまだ消えずに苦しんでいると盛綱に訴えます。亡霊は殺され海に捨てられた時の状況を語って聞かせると、供養の力によって成仏したのでした。

見どころ

能〈藤戸〉は『平家物語』に描かれた藤戸の合戦が題材になっています。庶民が権力者の不当な行為を告発することなど不可能だった時代に〈藤戸〉の親子は身を(てい)して戦争の理不尽さを訴えます。

母が「亡き子と同じ道になして」殺してほしいと盛綱に走り掛り、払われて倒れ伏す場面は緊迫した劇的なものです。走り出たものの足がすくみ(ころ)んでしまう演出もあり、流儀によっては母が孫(殺された男の遺児)と登場することがあります。その場合は盛綱に走りかかろうとする母を孫が引き止め、母は孫を抱いて泣く演技をします。

後半は男の霊が自身の殺害の様子を所作を交えて語ります。男の霊は杖を突いて登場しますが、この杖は男の声なき声を雄弁に語ります。盛綱に詰め寄るように突き立て、あるいは盛綱を襲うように振り上げ、語りの中では刀に見立て、または(くび)(かせ)のように首の後ろに当ててなすすべもなく水中を(ただよ)うさまを再現し、結末では彼岸(極楽浄土)に渡る船の棹となり、ついには杖を捨てることで男が成仏したことを表現します。

一人の能楽師が、前半と後半で全く異なる人格の役を演じ分けます。

戦国時代に前田(まえだ)利家(としいえ)大谷吉継(おおたによしつぐ)が〈藤戸〉を見た記録が残り、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)は〈藤戸〉の主役を演じています。戦乱の世、ともすれば盛綱と同じ立場にならざるをえなかった彼らはこの能にどのような思いを抱いたのでしょうか。